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「ワーク・アンド・ヴァカンス」でいこう!〜大学生、生産者、そして経営者として「食」と「農」に関わってきた私の生き方〜(前編)

Text:佐々木順平
編集:トイロハ・ワークス編集部

※後編はこちら

何不自由ない学生生活、そして仕事をこなすだけの会社員時代

朝起きれば温かい朝ごはん、昼は手作り弁当、夜は何も言わなくても好物が並ぶ食卓。部活で汚れたユニフォームは次の日には畳まれ、欲しい物は比較的なんでも手に入った。多少問題を起こしても、警察沙汰にまではなった事はないし、いつも誰かに守られた生活を送っていた気がする。学生時代はそれが当たり前だと思っていたし、この生活リズム、生活レベルを一生変えたくないと思っていた。

高校卒業後の進路を決める時、最後まで進路が決まらない大学受験(センター試験)は避けたいと思い、受験しないことを決めた。かと言って特にやりたい事もなかったし、安定(給料)を優先して、いち早く進路が決まる就職を選び、一番の優良企業に映った電力会社に就職を決めた。とにかく、楽な方へ楽な方へ。そんな思考の中で、学生生活の第1章を終えた。

2004年4月1日、慣れないスーツに身を包み、期待と緊張の中で入社式に臨んだ。そこで、今でも忘れない出来事を経験する。新たな仲間を受け入れる日に、社長が入社式を別用件により欠席し、副社長が祝辞を代読した。仲間を受け入れる日にそれ以上に大切なことって?

その瞬間、会社に対しての期待は地に落ち、1日1日をただただ「こなす」会社員生活がスタートした。

当時、仕事を何のためにやるかとか、誰のためになるかとか考えたことすらなかった。もちろん、会社の飲み会なんかに参加した記憶は皆無だ。大企業と呼ばれるだけあり、同年代と比べればそこそこの給料はもらっていたことは記憶にある。当時は洋服を買うのが趣味だったが、ただ自己の欲求を満たすためだけに、ひたすら給料日を楽しみに仕事をこなした。

農薬の中毒症状が転機となり「つなぐ人」としての役割に目覚める

3年目に差し掛かる頃、山間地域にある営業所に転勤が決まった。朝6時の始発電車に乗り、定時で上がっても20時過ぎに帰宅する毎日。仕事に対して今まで以上に何の感情もなくなっていた。そんな中、人生で一番の転機が訪れる。

初夏に差し掛かった頃、早朝に広大な畑を横断して現場まで行く仕事があった。誰もいない農道を、車の窓を全開にしながら風を感じ、颯爽と走るのは最高に気持ちが良かった。景色といえばあたり一面の緑、地上1メートルほどには朝靄が立ちこめ、あちこち見える数台の大型トラクターの他に何もない。

そんな日が一週間ほど続くうちに異変が起きた。原因不明の高熱と吐き気が続き、身体に力が入らなくなった。医師の診断では、農薬による中毒症状だった。初夏は農薬散布の時期であり、朝靄に見えていたのは大型のトラクターにより散布された農薬だったことをこの時知った。解毒剤などの薬を処方され数日後には体調も回復、身体は今まで通りに動けるようになった。

その頃から、仕事の合間に農薬や農業について調べ始めた。親族に農家は一人もいなかったし、それまで農業に興味を持ったことは全くなかったが、どんどん興味が湧いて行った。

そうしているうちに漠然と、「有機農家になりたい!」と思い始め、週末になれば自分で見つけたり知人に紹介してもらった生産者さんのところへ足を運んだ。全く自分の知らない世界だし、実際に農作業をしてみることが新鮮で、日に日にのめり込んで行った。その後二年ぐらいの間に50軒以上の農家さんと交流し農園にお邪魔したと思う。

こんなことをしているうちに、ふと思った。「自分は生産する立場の人ではない」と。

生産者さんと色々な話をする中で、農業の問題点や辛い点を聞く機会が多かった。例えば、商品には規格があり規格外は処分しなくてはならないことだとか、どんなに良いモノができても基本的に自分で金額を決めることができないこと、労働時間を時給換算すると100円程度にしかならないことなどなど、挙げていけばキリがない。

ただし、プラス面で大きくカバーされているということも知っていた。それは「やりがい」だ。

そこで私が明確に思い描いたのは、自らが生産者になるのではなく、生産者さんの「やりがい」や「モチベーション」を上げる役を担うことで、総合的にコーディネートすることを仕事にすることだった。

それからは、生産者さんともっとコミュニケーションを取るため、栽培を真剣に学ばなければならないと思い、会社員生活を続けながら、土日と平日の朝に有機農家で3年間研修を積んだ。個人的な名刺を持ち、「つなぐ人」として活動を始めたのもこの頃からだ。

さぁ、来年度中には会社を辞めて事業を立ち上げよう、というタイミングであの日を迎えた。

3.11 東日本大震災のその日

その日は有給休暇を消化していて、農家さんと午後から春野菜の種まきをしようという話になっていた。支度を済ませて出かけようとした瞬間だった。

グラグラっと来て、いつもの地震かと思ったが揺れはどんどん激しくなり、外に出ると高圧電線がカタカタ音をたてながら見たこともないようなしなり方をして揺れていた。揺れがおさまり部屋に戻ると食器は棚から落ちて散乱し、電気も点かない。見ると、辺りの信号も点いていない。

当時はまだ某電力会社の社員であったため、ただ事ではないことをすぐに察し、急いで車で事務所まで向かった。その道中、ラジオで東北地方沖を震源とする大きな地震のことを知った。会社に着いたものの各所は混乱しており、現場からは作業員が帰社し全員待機していた。群馬県内でも多数の停電が続く状況だったが、幸い事務所は停電しておらず、テレビから流れてくるヘリコプターからの衝撃的な映像をただ見ているしかなかった。その日は、何もできないまま夜中まで待機し、翌日に備え、日付が変わるころに一時帰宅となった。

翌日12日からは、停電したお客さまへの対応が続いた。その時は、原発がどれほど酷い状況なのかは、社員ですら大して把握していなかったと思う。13日は日曜だったが、この日もほとんどの社員が停電対応に当った。その頃になると、原発がとんでもないことになっているということは分かっていたものの、そのことを深く考える社員は少なかったと思う。当時を振り返ると、水素爆発の映像を見た後も、「会社がつぶれるのかなぁ」と我が身のことしか考えられなかった事があまりにも恥ずかしい。

「無知の知」とその次の学びへ

世間に対して肩身が狭くなる中で、私は会社を辞めることを躊躇していた。会社を辞めて、農業に関わりたいとずっと考えていたが、あの状況の中で辞めることは、懸命に頑張る仲間への裏切りにしかならないと思い踏みとどまっていた。

そんな時、早稲田大学で行われた、6次産業化について学ぶプログラムを受講する機会を得た。6次産業化とは、1次産業が生産、2次産業が加工、3次産業が販売や流通を行い、これらを足したり掛けたりすると6になるため6次産業という。それを総合的に学ぶことができる半年間のプログラムだった。

3年間以上かかわっている農業生産に関しては自信を持っていたし、その他にも色々な情報にはアンテナを高く張り取り入れているつもりだったので、正直なところはじめは少し舐めていた。

だが、いざ蓋を開けてみれば、大学教授による現代農業の実態やアグリビジネスの講義、日本各地の第一線で活躍する商品開発を行うプロ達の実体験、チームで商品を提案するワークショップなどを通じて、全く知らなかった農業の歴史や日本各地で行われているアグリビジネス、商品のマーケティングやブランディングを知るに及び、自分の無知さを受け入れざるを得なかった。震災前に、会社を辞めて総合的な農業ビジネスをしようと考えていた自分が恥ずかしくなったし、あの時辞めていたらと思うと今でもゾッとする。

そこでもう一度自分を見つめ直した。もっと農業、農村、アグリビジネスなどについて学びたい、学ばなければならない。

そんな時、地元の高崎経済大学に地域政策学部なる学部があり、農業、農村についてなどを学べると知る。思い立ったら吉日、善は急げ。家族にも上司にも誰にも相談せずに受験し、無事に合格した後に、合格証を持ち退職することを皆に伝えた。家族にはあまり驚かれなかったし、会社では少々驚きはあったものの、それでも快く送り出してくれた。

その頃、震災の影響で群馬県内の野菜に対する風評被害が激しく、敬遠されがちだという中で、生産者としての気持ちを少しでも知るために自らも畑を持ち、少量多品目で野菜を栽培し始めた。

思い立ったらすぐ動け、ヨーロッパでの学びの3週間

仕事の傍ら半年間の講義を修了した後は、野菜と農業で行きていくため大学進学も決めたが、何か視野が狭い感じがしていた。そんな時、テレビでフランスで日本野菜を栽培し、星付きシェフに直接届けるスタイルで農業を行っている日本人、山下朝史さんの事を知り、一度会いたいと強く思った。

また、より美味しく野菜を食べるにはどうすればいいのかと考えた時に、オリーブオイルと少しの塩でいいんじゃないかと安易に考え、オリーブオイルと言えばイタリアということで、イタリアでオリーブオイルの勉強もしたいと思った。思い立ったらすぐ行動だ。

山下さんにはその著書に書いてあったアドレスへ直接連絡し、研修を申し入れた。幸い、快諾して頂き、その後、イタリアで行われるオリーブオイルについて学ぶためにオリーブオイルソムリエの講座を受講することも決めた。

年度終わりの忙しい3月、残っていた有給休暇を使って、約3週間、英語もフランス語もイタリア語も分からない人間が一人飛行機に乗りヨーロッパへ向かった。

まずは、フランスに渡り、約10日間、山下農園での住み込み生活が始まった。山下農園は、40~50a(約4,000〜5,000㎡)ほどの小さな畑で、少量多品目栽培を行う。フランスの農家の平均面積が約58ha(約580,000㎡)だからどれだけ小さいかがわかるだろう。そこで栽培される野菜は市場の値段より何倍も高いが、パリの星付きシェフからは引く手数多だ。なぜ、山下農園の野菜が選ばれるのか、その理由を知りたかった。

フランスはオーガニック先進国だが、山下農園の栽培方法はオーガニックに拘っている訳ではない。ただ、野菜を最高のクォリティで出荷する工夫や、シェフが使い易い状態で出荷する方法、それに効率化された農法を独自に編み出し、自らのブランドを確立されていることに感銘を受けた。

加えて、山下さん自身が持つ農業に対するフィロソフィーが癖の強いパリのシェフに選ばれ続けている理由だと理解した。自分を貫き、選ばれ続ける事の大変さと重要性をこの時学ばせて頂いた。

その後のイタリアでは、トスカーナ州のモンテカティーニ・テルメという街で一週間のオリーブオイルソムリエ講座に参加した。受講者数名で一棟のアパートに泊まり込み、合宿のような自炊生活を送った。その講座でオリーブオイルの効能、歴史などを学び、100種類近くテイスティングを行ったが、その時一緒だった受講生とは今でも連絡を取り合う良き仲間となっている。モンテカティーニでは、イタリア人の人当たりの良さや適当さが私のツボにはまり、その頃からイタリアの虜になった。

思い立ってから行動するまでは早かったが、この3週間のヨーロッパ生活は人生の中でもかなり濃い密度だった。そして、このイタリアでの生活がオリーブオイルの学びだけではなく、その後の人生に大きな影響を与えることになるとは思いもしなかった。

※後編へ続く

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