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20万円の空き家が変えた私の働き方〜「またやらへんのか、私」から「私が叶えたい未来は私が作る」へ

Text:熊野礼美
編集:トイロハ・ワークス編集部

山登りがきっかけで、花の百名山のある佐渡島へ。

私が佐渡に来たのは2014年5月。花の百名山ドンデン山でフラワートレッキングをするためでした。姫路で生まれ、大阪・神戸で学生生活を過ごし就職した私には、佐渡と言えば「金山」「トキ」しか知らない、とても遠い存在でした。稲作が盛んなことも、たらい舟があるなんてこともこの時は全く知らず、山登りの行き先を佐渡に決めたのも「誰も周りで行っとるやつおらんやん。なんかネタになるんちゃうん?」ぐらいのノリでした。

ところが、佐渡の山は想像をはるかに超える花・花・花! 今まで登ったどんな山よりも花の大きさや種類の豊富さに感動しました。登れば山から海が見えるという初めての体験。「この山、また来たい!一年通してこの山を見たい!」と思い、帰ってから佐渡のことを調べ始め「神戸からやったら遠いな・・・、もう住んでもたらええんちゃうん」と、当時募集中だった佐渡市地域おこし協力隊に応募し、その年の11月から佐渡での生活を始めました。

と、ここまでが「佐渡に来たきっかけは?」で話す1分コースの紹介です。住む場所を変えたきっかけは「佐渡島」に山登りに来たことでした。ですが、私が自分の生き方を変えたのにはもっとたくさんの理由があります。

雪割草。他にもヒトリシズカ・カタクリ・ニリンソウなどお花畑でした。

 

またやらへんのか、私。

28歳。私は神戸市にある教材会社に就職しました。小学校に出入りし、学校で使われる計算ドリルや漢字ドリル、理科室のビーカーや家庭科の裁縫道具などを販売する仕事です。学校の教科書に沿った教材を売るので1年に1回しかその商品を扱うことはありません。新しいものを扱える楽しみとお客様である先生たちとの交流も楽しく充実していました。

何より、学校が夏休みになるとメーカーも夏季休業をするので、私たちも12日ほど連続して休暇を与えられます。毎年海外旅行へ行って「社会人になっても毎年こんな長いこと休めるなんてええ仕事やなぁ」などと思っていました。反対に年度末年度始めの教材採択の時は、毎日のように終電、土曜日も出勤。10キロ以上ある段ボール箱をいくつも運ぶ日々。この頃は、そんな忙しさもメリハリがあり、私の性格にあった仕事だと思っていました。

32歳。4年のお付き合いを経て、結婚しました。この頃になると「家族が増えたら・・・」と考えるようになります。私は兵庫県姫路市で生まれ、幼稚園に上がるころ親が郊外に一軒家を建て、私・妹・弟、それぞれに一人部屋を与えてもらえました。遊び場には事欠きませんでした。イトトンボを虫かごいっぱい捕ったり、田んぼのあぜ道に咲くシロツメクサを積んだり、水たまりと水たまりを傘の先っぽで繋げてみたり、夕方のコウモリを見たり、そんな思い出が私の胸の中にはあります。

そこでふと思うのです。「このまま神戸に住んでたら、私がしたような経験を子どもにさせてやることが出来るんやろうか」。ここには田んぼはない。一部屋与えられるような家に住むには一体いくら稼がんとあかんのやろ。終電まで働く日は誰が晩御飯を作ってやるんやろう・・・。 仕事は充実している、給料も少ないわけではない。だけど、このざわざわした不安はとれない。どこかでずっと続けられる仕事に転職せなあかんな・・・と思い始めました。

その薄く積もった不安が2年分溜まった34歳のとき、佐渡に遊びに来ました。「ここには田んぼがある!あの日歩いたあぜ道がある!」私の中で何かが「カチッ」とハマりました。「ここやったら、住んでみたい」。そこからの行動は先に書いた通りです。そして、私の背中をさらに押したものがあります。

私は外国語大学を卒業しました。長期で留学してみたいな、と思いつつも短期の3ヶ月ほどの語学研修で満足してしまいました。ワーキングホリデーもやってみたいな、と思いつつも旅行でごまかし挑戦しませんでした。山小屋で働いてみたいと思ったときも同じです。何度となくいろんなものに挑戦することなしに諦めていた自分がいました。「ここやったら、住んでみたい!」と思った私にもう一人の私が「今回はほんまにやるんやな?またやらへんのか、私」と発破をかけてきました。

やるで、今回はやるっ。2年分の薄く積もった将来への不安を払拭するものがここにはある。そう信じ、仕事探しを始めました。

イノシシ・シカ・サル・クマのいない佐渡では電柵もなく美しい。

 

退路を断つ覚悟、だけど自分を縛らない。

地域おこし協力隊という今では仕事はかなり知られるようになりました。総務省の事業で最長3年間、地域協力活動を行い都市部から地方へ定住・定着を図ることを目的とされています。

私がこの仕事がいいなと思ったのは「3年間」という期間があったことです。佐渡がいいなと思っても、佐渡に知り合いはいません。今まで引っ越しが多くそれなりにその土地でたくさんの友だちができたので、佐渡に引っ越してもきっと友だちはできるだろうという自信と、「いや、待てよ。田舎の理不尽なルール(イメージ)に耐えれんようになるんとちゃうやろか」という一抹の不安、そして初めて住む「雪の降る土地」。それを「体験」するには3年間がちょうどいいと思いました。「佐渡に引っ越しするで」と友だちに言った時も、引っ越し先の佐渡で「お世話になります」と言った時も、『3年間は』と言葉を添えていました。

だけど、心の中では退路を断つ覚悟でした。34歳で仕事を辞める。佐渡で協力隊をやったら37歳。その歳で、大した資格もない自分に都会に戻って転職は難しいだろうとわかっていました。「骨を埋める」気はないのですが、「楽しかったよーありがとー」で帰る気もなく「ここで絶対なんか残す」という気持ちでいました。その覚悟は自分で決めればよく、言葉で自分自身を縛る必要はないし、あえて周りに言う必要もないと思っています。その気持ちは今でも変わりません。「楽しいと思っている間はいます^^(ニコッ)」が最近の言い方ですね。

協力隊仲間と東京と繋がる交流イベント「佐渡がすきナイト」を開催。

 

20万円で見つけた私の実験室。

地域おこし協力隊では「全島の空き家対策移住者支援」という途方もないミッションがありました。佐渡には空き家が約5,800戸(平成25年調べ)あります。「空き家」と言ってどういうイメージが湧くか。「暗い」「怖い」「汚い」・・・きっと3Kだろう。空き家問題を「問題」として捉えてもらうにはまず興味・関心を持ってもらうことからと、お宅訪問番組のように、写真付きで私の感想をつらつらと書いた「隊員的空き家レポ」を始めました。空き家の「見える化」をし、身近に感じてもらうことで、中には「この家なら住めるかも」と思ってもらえる人が現れるかもしれない。3Kの空き家に活用の道が開かれることを願って、3年間空き家レポは続けました。

そして、その空き家調査の中で見つけたのが、築70年の小さな空き家です。

購入した頃のひょうご屋。

 

錆びたトタン屋根、他の空き家より低い天井、車が入らない細い川沿いの路地にそれはありました。その後そこはひょうご屋と名付けられるのですが、ここに入った途端、今までにないものを感じました。何か物語が始まるような。ここをああしてこうしたら、きっと楽しい!というイメージが湧いたんです。

ちょうどその頃、いつか実験的に空き家をいじってみたいと思っていました。自分は空き家の活用を人に勧めている、だけど人は「空き家は大変だ。古い家は大変だよ」と言う。一体何が『大変』なのか?改修箇所の多さなのか?住めるようになるまでの忍耐なのか?使い勝手の悪さなのか?修理する資金なのか・・・?身を持って実験したいと思い、その機会を狙っているところでした。そのときに出会ってしまった「ひょうご屋」。何か物語が始まりそうな予感、実験したいと思う私の好奇心。そして何より20万円(!)という魅力的な価格。1ヶ月(一応)悩み、手に入れました。

できるようになる喜びと職人技のすごさを思い知る経験。

 

「ひょうご屋」でやった数々の実験。まずは残留物処理、「お宝発見」「古民家☆デパート」「物々交換」です。「お宝発見」は、残ったものからお宝があるかもしれない、とゴミ袋にいれながら選別します。好きなものがあれば持って帰るし、いらないものはどんどんゴミ袋に入っていき掃除がはかどりました。いらない材木は薪ストーブの薪として使いたいと申し出てくれた方もいらっしゃいました。「物々交換」は欲しいものがあればあげて、私は代わりに市指定のゴミ袋をもらいました。

「古民家☆デパート」は同じように空き家を手に入れ残留物に悩んでいた友だち何人かとガレージセールをしました。食器・着物・おもちゃなどが並びました。こちらから値段をつけるものもあれば、『投げ銭』にしてお客さんに値段をつけてもらったりもしました。こんなガレージセールをしているところは見たことがなかったのでしょう。近所のおじいさんが、「おめぇんとこ、骨董品屋なんか?これもやるさけぇ売ってええよ」と自分のところにある古食器をもって来られた時には参りました。私は処分したいのに!

DIYワークショップのお昼ご飯には、この細い路地を使って地元の名産「揖保乃糸」で流しそうめん。

 

そして次に行ったのは改修。「THE 解体」から始まり、床貼り、漆喰塗り、障子貼り、どれもワークショップで人を募りました。講師は建築士会、参加者は「DIYやってみたい!」という女性が多かったです。女性が多く集まったのは、「私」が主催者だったからでしょう。もし「私」がゴリゴリのガテン系の「俺」だったら、きっとこの層はこんなに来なかったかな。「ちょっとやってみたい。ガッツリやるわけではなくて、ちょっと試しに」の方にちょうどよいポンコツ気味の私だから参加しやすかったのでは、と分析しています。

最後は残った廃材でベンチ作りをしました。ベンチ作りにはお母さんに連れられて三人姉妹がやってきました。途中で飽きた子どもたちはひょうご屋の前で「ダルマさんが転んだ」を始めたのですが、その声を聞いて周りの家からおじいさんが出てきたり、向かいのおばさんはチョークを持って道にケンケンパを描いてくれました。車も入れない不便な路地は、あっという間に暖かい雰囲気に包まれました。

私の20万円の実験室は、「人が集まる場所」という機能を果たしつつありました。そして、人が集まった先のことを考え「シェアキッチン」にすることにしました。佐渡の人たちに特技を生かした意外な素顔、趣味を商いにする、2枚目の名刺という働き方を提案したかったことと、島外の人たちで観光以外の関わり方をしたいと思う方の拠り所にすることが目的でした。

元は仏壇や押入れがあったところをキッチンにしました。

 

地域おこし協力隊を卒業、そして起業へ。

2017年10月、3年間の協力隊任期を全うし、合同会社paletteを立ち上げました。現在、移住支援、まちづくり支援、交流拠点の運営の三本柱で事業をしています。

「40年後の茶飲み友だちをここで」はサポートセンターの合言葉。

そして、協力隊を卒業し、佐渡UIターンサポートセンター事業(以下、SUI)を佐渡市役所から委託をいただき、運営することが決まりました。協力隊時代では「隊員的空き家レポ」と移住相談の対応を行なっていましたが、空き家の業務は市役所に残し、移住相談に重きを置いたサポートを行なっています。特に移住後の不安や孤独を少しでも解消できるよう、交流会や移住後のケアに力を入れています。

SUIのスローガンは「40年後の茶飲み友だちをここで」。移住を考えている人は新しい生活にワクワクしている反面、同じくらい不安や心配を抱えています。「ここで長く住み続けられるだろうか」「生活環境は大丈夫だろうか」。住む場所を変え、周りの友だちも一新されることに全く不安を持たない人は稀です。その不安や心配は、「佐渡に住みたい!」と思ったあの日の私そのもの。気持ちがわかるからこそ、佐渡での「居場所づくり」のお手伝いをしています。

移住支援事業では他にも島内の求人広告をホームページやSNSに掲載したり、何度も佐渡に通えない人のために不動産の下見などを代理で行なうサービスがあります。

まちづくり支援事業では、個人米を売りたいという方の販売までのブランディング、クラウドファンディングの記事作成、イベントの事務局手伝い、ツアー商品の企画など、様々なことを行なっています。今住んでいる佐渡で誰かの形にしたいことに私の力が少しでも役に立つなら、何でもしたいですし、「40年後の未来」を一緒に作れる仲間に出会えた気になります。

ちなみになぜ40年後かというと、私より40歳上のおじいさんおばあちゃんたちがとても元気で、スーパーで友だちを見つけてはおしゃべりに夢中になっていたり、お洒落なカフェにもいますし、元気な人はスナックに夜な夜な現れます。そんな元気で充実しているお年寄りを見ていると「私がこの人たちの年齢になる頃には、一体佐渡にはどれくらいの人が住んでいるんだろう。このままの人口減でいけば、私はシニアカーを一体何キロ走らせなければ友だちに会いに行けないんだろう・・・」とふとよぎり、少し背筋が寒くなったからです。

社会問題である少子高齢化人口減が、今、目の前にジブンゴトとして降りかかっていることが、ここではっきりと見えました。ですが、日本中人口が減っている中、人の引っ張り合いをしてもどうしようもありません。ただ、遊びに行く先や会いたい人が佐渡であればいいと思っています。私だって「骨を埋める」覚悟はしていないのですから。

三本柱の最後、交流拠点の運営は、前述したシェアスペースひょうご屋コワーキングスペースSAJEMです。ひょうご屋はその後カフェ、花屋、おでん屋、カレー屋、絵の展示、陶芸や手工芸の販売、写真撮影などに使っていただき、また地域の女子会の場所としても利用していただいています。私が想像していなかった使い方を、利用者さんがしてくれるのでひょうご屋の魅力がどんどん引き出されているように思います。

ひょうご屋を運営し、当初の目的通り特技や趣味を生かし2枚目の名刺に挑戦する人たちに出会えたことはとても嬉しいのですが、もっと予期せず嬉しかったことは、島内の人がそれを面白がってお客さんとしてカフェや花屋に足を運んでくれることです。空き家がこんな風になるんだ、こんな路地でもお店になるんだ、どんなことでも「こういう楽しみ方があるんだ」と新しい発見をここでしてくれているのがとても嬉しいです。

私の三本柱の事業はまだまだ荒削りで、うまくいかないことも多いけれど、ここでは「隙間」が大きく、ただの会社員だった私でも「これはサービスとして誰かの役に立つのでは」と考えることができます。最初は「起業なんて『すごい人』がするもんだ」と思っていました。収支計算や事業計画なんてどうしたらいいのかわかりません。何から手を付けたらいいのかさっぱりわからない中、お世話になったのがにいがた産業創造機構(NICO)やそこが事務局をしている新潟県よろず支援拠点です。

物販や飲食店と違い社会的問題を事業とする私のサービスは自分でも収益化がわかりにくく、どのようにお金を生み出すのか、むしろ困っている人からお金をとっていいことなのかと悩んだことさえあります。そんなとき、よろず支援の中小企業診断士の方に「世の中にそのサービスがなくて困っている人がいるなら、それは立派に事業とすることができる」と背中を押してもらい、今に至ります。その言葉をいつも思い出し、小さい規模で佐渡という限られた地域であるとしてもソーシャル・アントレプレナーの自覚を持つことを忘れないよう、常に「誰のために?どんな未来を作りたいから?」と自問自答しながらやっています。

集落の数だけ鬼太鼓と呼ばれる門付芸能があります

未来を能動的にデザインしていきたい。

ここ1、2年、目立って若い女性の単身移住希望の相談が増えました。「なぜ佐渡に?」というきっかけは様々ですが、都会で生きることに薄く積もった漠然とした不安を持っていたあの時の自分が、彼女たちの背後に見えます。あの日の自分と同じ想いをしている人が目の前にいる。何か自分を変えるきっかけを求めていて、たまたまそれが佐渡暮らしなのかもしれません。そしてやはり「新しい生活にワクワクしているが、知り合いのいない新天地でやっていけるのだろうか」という心配を口に出されます。

佐渡暮らしの相談窓口(SUI)、交流スペース(コワーキングスペース)、挑戦する場(ひょご屋)を持った今、次に考えていることは、ソーシャルアパートメントです。知り合いのいない新天地で生活をスタートする不安の解消になれば、と思っています。資金面など実現するための課題がありますが、小規模でいいから持ちたいですね。そこで出会えた人たちとは、きっと「40年後の茶飲み友だち」になれそうな気がします。

2014年から佐渡に住み始めて5年目に入りました。この5年で大きく変わった心の変化は「私が叶えたい未来は私が作る」という前向きな気持ちです。そして「佐渡に移住したいんです」というご相談をされる方もそういう気持ちを持っていると思います。これから先、そんな方々と共に描ける未来を楽しみに、そして私がおばあちゃんになる頃、たくさんの友だちと縁側でお茶が飲めるよう、今日も明日もコツコツやっていきたいと思います。

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