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「出会いと繋がり」をアップデートし続けるために〜たどり着いたら「Hostel, Coworking & Coliving」だった

Text:上田拓明
編集:トイロハ・ワークス編集部

それは「バックパッカーの聖地」バンコクからはじまった

Chapter Two Tokyo。東京・浅草で僕が妻と2人で営む小さな宿です。 2018年3月に開業しました。日本屈指の観光地である浅草という立地柄、訪日外国人ユーザーが多いことが特徴です。観光目的のお客様のみならず、旅をしながら働くノマドワーカーのお客様も多く、仕事のスタイル、旅のスタイルが多様化していることを実感する毎日です。

そしてその多様化と共にお客様が求めるものも変化し、お迎えする側である宿泊施設も多様化しています。その中で「どのようなお客様に何を提供したいのか」を明確にすることが一層重要になっています。僕たちが大切にしているのは「出会いと繋がり」です。

僕がなぜそのような施設を営むことになったのか。その原点は学生時代にあります。幼少期からなんとなく「外国」に憧れを持っていましたが、大学生になって韓国人留学生の友人ができたことにより、ただの憧れだった外国が身近に感じられるものになりました。そして異文化をもっと知りたいと思うようになり、格安航空券を見つけてバンコクへ旅立ちました。初めての飛行機、初めての外国です。

当時のバンコクは「バックパッカーの聖地」と言われ、安宿や旅行代理店が多く、たくさんの旅行客で賑わっていました。初めて尽くしで何をするにも楽しく、初日から舞い上がってしまった結果、カオサン通りでレディーボーイにナイフで脅され、ほぼ全ての財産を失いました。かろうじて奪われずに済んだなけなしのお金で、僕はホステルに泊まりながら、様々な人と出会いました。異国に対する好奇心はますます大きくなりました。

長い旅を終えて行きついた先は浅草だった

帰国後、通っていた大学について改めて調べてみると、単位を全て取得すれば4年間通い続ける必要なく卒業資格が得られることを知り、毎日遅くまで授業に出て必死で全単位を取得し、旅をするための時間を確保することに成功しました。

その後海外へ向かう興味のきっかけとなった韓国へまず出かけ、しばらく生活することにしました。語学学校へ通い、そこで世界中から訪れた人と出会いました。「日本で生まれ育ち、日本語を話す日本人」という自分の中での常識を初めて省みることになったのも、「自分の存在とは何なのか」という問いに初めてぶつかったのもこの時期です。多いに刺激を受け、結局約1年間生活しました。その後拠点をカナダに変えてまた約1年、アメリカやヨーロッパなど、たくさんの国を旅しました。

旅の思い出を振り返るとき、いつも真っ先に思い浮かぶのは、貴重な遺跡や建築物、あるいは特別な景色を見たことではなく、誰かとご飯を食べたこと、誰かと話したこと、といった誰かと何かをした経験ばかりであることに気づきました。「何を」でなく「誰と」が僕の中では一番重要で、その「誰か」と出会うきっかけとなっていたのは、いつもホステルでした。

長い旅を終えて帰国し、日本でもホステルのようなものがないかを調べてみると、浅草で創業して間もないあるホステルの情報が目にとまり、早速連絡してすぐに働くことになりました。今と比べると当時はまだ外国人旅行客は少なかったのですが、安価な宿泊施設もまた少なかったため、そのホステルは常に満室でした。

昼はホステルスタッフとして、夜は併設のバーでバーテンダーとして働きました。そこでの数々の出会いは僕の視野を広げてくれました。その会社はお客様もスタッフも家族のように付き合う社風でとても居心地が良く、「旅行者として訪れる側」から「旅行者を迎える側」に立場が変わり、ホステルがもたらしてくれるワクワク感を両面から感じることによって、さらにホステルが好きになりました。しかし、そんな楽しい生活にも終わりが来ました。

5年の会社員生活を経て戻ってきた自分のいるべき場所

大学卒業後は親の強い希望もあり、地元富山県の再生合金メーカーで営業マン生活を始めることになりました。入社当時、独特の閉鎖的な考え方が合わず、結果もなかなか出せず、ストレスのせいか大腸に潰瘍ができたこともありました。しかし、いつからか「自分を殺すこと」を覚え、仕事の結果が出せるようになっていきました。そしてルーティンワークをこなしていく生活に慣れていったのです。

入社してから約5年が経過したある日、上司に呼び出されてひどく叱られました。説教されることには慣れていたのですが、その日はなぜか「そもそも、なぜこの仕事を任されているか理解しているのか」と問われたことが胸に引っかかったのです。「なぜ僕は金属を売ったり買ったりしているんだったっけ」。この自問は、「そもそも僕は何のために生きているんだったっけ」という問いにつながっていきました。

休日出勤が当たり前、深夜に呼び出されることもある生活の中、たまの休みと年2回のボーナスを楽しみに、「契約」を追いかけて働く人生とは何なのだろう。僕は自分の仕事に対して何ら情熱を持っていなかったことに気づいたのです。そしてそれに気づいた瞬間に、しがみついていた様々なことへの興味が失せていきました。退職したのはそれから間もなくのことです。

仕事を手放し、解放された僕の心に、ワクワクしながら生活していたあの頃の記憶が強く呼び起こされるようになりました。そして浅草のホステルの創業者の方に電話をかけてみると、一も二もなく「もちろん歓迎するよ」と言ってくださったのです。5年の年月を経て、その会社は多店舗展開し、大所帯になっていました。規模が大きくなってもあの頃のワクワクはまだそこにありました。「ここが自分のいるべき場所だ」と感じました。

営業マン時代は自分のプライベートを犠牲にして仕事に明け暮れていました。「仕事」と「プライベート」の境界がはっきりしない生活でした。ホステルでの仕事もまた、プライベートな時間にもお客様が隣にいることが当たり前で、オンとオフの区別が曖昧なものです。しかしその性質は全く異なるものでした。「出会いと繋がり」という僕の中で最も大切な価値で満たされていたからです。

新婚旅行は砂漠を250km走るサハラマラソンへ

ホステル業界に戻って5年、時間はあっという間に過ぎました。その間に同僚だった女性と結婚しました。

僕たちが新婚旅行先として選んだのは「世界一過酷なマラソン」と言われる「サハラマラソン」。1週間かけて、サハラ砂漠を約250km、食料や寝袋など10kgほどの荷物を背負いながら走る大会です。そのきっかけは、知人が同大会に参加している様子を写真や動画で見た妻が、「新婚旅行はこれに行こう」と言いだしたことです。最初は「何をまた血迷ったことを」と軽く流していたものの、次第に「面白いかも知れない」と思うようになり、ついに参加。二人揃って完走することができました。

途方もない距離を重い荷物を背負って走りきった経験を共有できたことは、僕たちにとって「二人でどんな障害も超えられる」という自信になりました。そして、この大会によって得られたのはそれだけではありません。

レースだけで1週間、全体では約10日間の行程になるこの大会に参加していたのは、それだけの時間を積極的に確保した人だけです。つまり「何かを達成するためには何をしなければならないか」というマインドを持っている人。そこには「やらない理由」を盾に身動きがとれなくなっている人は一人もいませんでした。そのような人たちとの出会いが、この大会における何よりも素晴らしい財産となりました。

新たな出会いや経験により、僕は次第に変化していきました。「出会いと繋がりが起こる場所を自分自身の手で作りたい」と思うようになり、夫婦で退職することにしました。次の展開については具体的なことを何一つ決めず、ただ退職をしました。住んでいた家を引き払い、荷物はそれぞれバックパックひとつにまとめ、「住所不定・無職」になりました。

会いたい人に会いに行ったり、夫婦別々に旅をしたり、何も持たない今だからこそできることをしようと、僕はマレーシアで起業した友人や、フィリピンで働く元同僚を訪ねるところからスタートしました。国という枠組みを超えて、自分のフィールドを自分の力で切り開き、生き生きと生活する彼らの姿はとても眩しく、大きな刺激を受けました。

一方、妻はスリランカを旅しており、入国早々に声をかけられたというスリランカ人家族の自宅へなぜか上がり込み、その家族と共に生活していました。その様子が楽しそうだったので僕も合流したところ、向かう先々で熱烈な歓迎を受け、スリランカと日本の関係の深さを知ることとなりました。

その後インドにしばらく滞在し、インドに残る妻より一足先に帰国した僕は、以前から興味のあった「ヴィパッサナー瞑想」に参加しました。10日間誰とも話さず目も合わさず、ひたすら瞑想をするというプログラムです。自分の心や体を「観察」し続けるというこの特異な環境は、どんな時でも「今、僕の心と体はどのような状態か」と立ち止まり内省する力を僕に与えてくれました。自ら選んだ「空白期間」にたくさんのことを吸収しました。

そして、「Hostel, Coworking & Coliving」を名乗ることに

そしてその空白期間にいただいたご縁により、浅草でホステルを始めることを決断しました。理想とする場づくりのために、ホステルというのはやはりとても良い手段だと考えたからです。

さて、ホステルがすでに溢れかえっている浅草はまさにレッドオーシャン。その地での新規出店。決断はしたものの、「ホステル」というだけで成り立つ甘い状況でないのは明確でした。僕たちはどのような人にどのような価値を届けたいのか、考えているとき、「Coliving」という言葉を知りました。すでに欧米を中心に広まりつつある生活スタイルではあったものの、日本ではあまり知られていないその言葉にピンときたのです。

ホステルで働いていた頃、いわゆる「普通の旅行客」でない人に出会うことがありました。妙に長く宿泊し、日中は外出せずにリビングルームでPCに向かっている。時々一緒に出かけると、宿泊代の何倍もの金額をポンと支払ってご馳走してくれる。はじめは「観光にも出かけない。安宿に泊まっているのに羽振りが良い。不思議なお客様だな」と感じていました。しかしその方から話を聞く中で、PCひとつで仕事ができる人たちが存在し、移動しながら仕事をするというライフスタイルがあることを知りました。そしてそのようなお客様が一定数いることにも気づきました。

「ホステルを拠点として仕事し、生活している」という点で共通しているそのお客様と僕たちは関わることが多く、コミュニケーションを深めることができました。お互いの国や地域の文化のこと、歴史のこと、お互いの人生のことなどを話すうちに、「お客様とスタッフ」という関係性を超えた繋がりが自然と生まれました。「Coliving」という言葉は、自分の時間を自由にコントロールして人生を楽しんでいる、そのようなお客様を思い出させたのです。遊ぶこと、働くこと、生活することを分けるのではなく、全てがここで融合すればおもしろいことが起こるはずだと確信し、「Hostel, Coworking & Coliving」と名乗ることに決めました。

「出会いと繋がり」という価値を常にアップデートする

開業以来、様々な国・地域から多様なバックグラウンドを持つ方を迎えています。「そんな人生もあるのか」という驚きがたくさんあります。出会えば出会うほど、人生の設計方法にルールなど何もないと感じます。しかし、現代の日本に生まれ育った人の中には、選択肢が無数にあるという事実に気づかず、あるいは気づかぬふりをして人生を豊かにする機会を失っている人が多いのではないかと感じています。

働き方という点に絞っても同様です。例えば僕たちはホステルを営んでいて、毎日様々なお客様に出会い、影響を受けています。しかし、そのような状況であっても、同じ場所に留まり箱に閉じこもっているだけではどうしても視野が狭まっていくものです。普段は迎える側である僕たちもまた、変化する世界を自分の目で見て、アップデートしていかなければ、お客様にとって刺激的で楽しい空間づくりはできないと考えています。だから僕たちもたくさん外に出て、生の情報を持ち帰り、いつも新鮮で変化に富む空間を作れるよう動いています。

例えば、「電子国家」として昨今注目を浴びているエストニア。友人がエストニアで起業したというので、僕も「どんな国なのか見てみたい」と思いたち、彼を訪ねました。行政サービスの99%以上を電子化しているという、まさに最先端の国。なぜそれが実現可能だったのだろうかと不思議でした。

エストニアは人口約130万人の小国。隣接するのはロシアです。聞くところによると、国家の安全保障上の「危機意識」というのが根底にあるということでした。「自分たちのアイデンティティーを守るために手を打っておくべきだ、そのために変化するしかない」という個々の意識が国を動かしたと言えるでしょう。エストニアを訪れたことは、自国日本について省みる機会となりました。

一方妻はトルコへ足繁く通っています。「国を持たない最大の少数民族」と言われるクルド民族への関心が強く、彼らの歴史や文化について、本や映画からだけではなく、実際にクルド人と関わることにより知りたいと考えているからです。彼女もまた、「民族とは」「国家とは」という観点から、「では日本はどうか、日本人はどうか」と考えており、これについては二人で頻繁に議論しています。

自分の目で見て、足を運ぶと、その時触れたあらゆることが「自分事」になります。「自分事」になったその情報は、誰かのフィルターを通したものよりも情熱をもって人に伝えることができます。

僕はChapter Twoにおいて、問題を共有し、意見を交換し、発展的なコミュニケーションへとつながっていく、というようなことを何度も経験しました。そうして繋がった人との関係は一時的なものでは終わらず、その後もずっと続いていくものです。これが僕が大切にする「出会いと繋がり」です。だから僕は、その大切な、不変の価値をいつも生み出せるように、変わり続けたいと思うのです。

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