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漂流ワーカー隠岐だより Vol.1〜絶海の離島で再び描くライフデザイン〜

※写真中央が中ノ島(海士町)。奥にかすむのが島後(隠岐の島町)。

Text:前田昌宏
編集:トイロハ・ワークス編集部

「もうアカン……」私は島へ逃げ込んだ

海士町=隠岐=島根県

ここは島根県隠岐郡海士町。2年前の2016年9月、私が移り住んだ日本海の離島だ。

海士町は「あまちょう」と読む。数ある難読地名の一つだ。隠岐は、「おき」である。長崎県「いき(=壱岐)」ではないから念のため。鳥取県でもない。所属は、都道府県別の調査での知名度が最下位に入って県民をがっかりさせることがよくある島根県だ。

とはいえ海士町は、私が移り住む前から地域創生の先進地とされ、さまざまな場所・場面で話題になってきた。隠岐を、島根県を、それぞれ知らなくても、海士町の名前だけはどこかで聞いたことがあるという人は少なくないだろう。

「移働」「コワーケーション」で暮らしてきた

私の生業は、フリーランスの物書き(=ルポライター)である。移り住む前は、生まれ育った姫路市(兵庫県)在住。月に1回ほど打ち合わせで東京へ出かけたり、主に旅行者向けガイドブックの仕事を受けていたから地方へ出張したり、という暮らしで安定していた。

すると仕事場はいらなくなる。姫路と東京でコワーキングスペースの会員になってはいたが、ほとんどの作業をホテルの部屋か新幹線の座席で済ませていた。

必要になるやり取りは、面会せずネットに頼ればいい。ペンと紙、辞書の役割を果たすパソコン1台を載せて作業できるスペースと、通話とテザリングに使うスマホがあれば事足りる。

特に意識していなかったが、割に早くから移動ならぬ「移働」や 「コワーケーション(co-working+vacation)」で暮らしていたといえよう。そもそも私は旅好きでもあった。

しかし燃え尽きた

ライターという仕事は、クライアントから重宝されればされるほど、案件に身を入れれば入れるほど、次第にライティングのみならず企画や編集、デザインという分野にも役割が広がっていく。

いくらネットを駆使しているつもりでも、面会での打ち合わせが増えてきた。「WEBサイトを見て」「SNSで知って」という人や企業から相談を受ける機会も同じく増えた。

気付けば、クライアントが集中する東京へ月に5〜6回は出向く生活に陥っていた。祭り上げられて調子に乗っていたのかもしれない。

9日後また来るわな… (꒪⌓꒪)

前田 昌宏さんの投稿 2015年2月18日水曜日

姫路・東京間は、新幹線で3時間余り。普通車の座席は詰め込み式で混雑も激しく、次第に疲労が重なった。グリーン車も使ってみたが、しんどいものはしんどい。帰りは寝入ってしまい、姫路で起きられず岡山まで乗り越す失敗も増えた。

そこで帰りは、どこかで時間をつぶしてでも最終ののぞみで帰るようにした。姫路止まりで安心できたからである。いっそ東京へ移り住めばよかったかもしれないが、踏ん切りをつけられずにいた。

衝動的逃亡=移住

移住直前の夏、海士町を訪れる機会に恵まれた。目的は、ITに携わる人を対象にする島根県の事業「ITしまね開業支援」の一環で行われた移住体験ツアーの取材である。

支援の内容は、交通費や家賃、通信費、人件費などを移住しての開業から3年間にわたり助成するというもの。取材は、たまたま海士町に友人がいたことからツアーを知って申し込んだ。あくまで客観的な興味だった。

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ゲロ船つらい。船室内に異臭。

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ところがツアーを取材して1カ月後、私は海士町へ向かっていた。荷物はスーツケースが一つ。とりあえず行ってみよう。友人がいる。Iターン(移住者)が数百人もいる。

しかも幅広くIT職の開業を支援しようという事業に取り組んでいるくらいだから、非ITでもフリーランスの一人くらい受け入れてもらえる余地はあるだろう。そうであってほしい。

衝動的な逃亡である。もう身がもたない。物理的に東京を切り離してでもリセットしてライフデザインを描き直さねば。独身・46歳は、姫路の実家に居づらくもあった。クライアントをはじめとする周囲にはほとんど打ち明けなかった。

仕事は、今あるものをそのまま持ち込めばいい。姫路が隠岐に変わってもなんとかなる。クライアントは失っても、また探してやり直せばいい。無理ならあきらめて戻ればいい。支えは、リモートワーカーとして暮らしを立ててきた経験から得た自信のみである。

幸い、海士町の行政は移住を快く受け入れてくれた。とはいえ突然の申し出は担当者をあわてさせることになり、家探しなどでは苦労をかけてしまった。

知夫里島のウグイガ崎から西ノ島を望む

旅行者として訪れてきた隠岐

隠岐は、私が25年にわたり旅行者として10回以上訪れてきた曽遊の地である。島後(どうご、隠岐の島町)の白島海岸や浄土ヶ浦、ローソク島、西ノ島(西ノ島町)の国賀海岸や摩天崖、さらには知夫里島(知夫村)の知夫赤壁、アカハゲ山、ウグイガ崎などなどの自然景観にひかれてのことだ。

ただし海士町を訪れたことはほとんどない。隠岐に4つある有人島のうち、中ノ島=海士町の地形は他の3島とは異質でなだらか、そして優美だ。上陸してしまうと、のどかな農村の風景が広がる。私が求める奇勝・景勝に恵まれているとはいえなかったからだろう。

早い話が、私は隠岐を何度も訪れながらも海士町を見過ごしてきたということになる。

地方創生への興味はうっすら

さらには海士町が「地方創生の先進地」とされてきたことに対しても不勉強かつ興味がなく、同じく見過ごしてきたことを告白しておきたい。「移住者が多いらしい。しれーっと紛れ込めて楽かも」というレベルだった。

とはいえ町の人々には、生え抜きのプロパーであれIターンの移住者であれ、私が移り住んだ理由を島おこし(=地方創生)に求めようとする傾向がなくはない。

何やら申し訳ないようだが、私は私の仕事をそのまま持ち込んできたに過ぎず、そのあたりの意識は低い系である。なにせ理由は「逃亡」だし、目的も「逃亡」なのだから。

なまじ手職を持ち生業としてきたがゆえに、職人気質が視野を狭くしているともいえる。

うっすらとではあるが、せっかくの手職を何らかの貢献につなげたいという考えが頭をもたげたのは、移り住んでからのことだ。今後の課題といえようか。

地図にはデフォルメを施した。正しい縮尺では、隠岐4島はもっと小さく本土から遠い

「絶海の離島」への不安いくつか

なにしろ遠い「海士町」

海士町の地理は、なかなかややこしい。主な町域は、有人4島が多数の無人島を従えて日本海に浮かぶ隠岐諸島の島前(どうぜん)・中ノ島。島根県本土からの直線距離は約50キロ。県庁がある松江市からの最速ルートは、路線バスと隠岐汽船の高速船を乗り継いで約3時間だ。

東京と大阪からの最速ルートは、夏なら、東京=羽田から飛行機で、大阪=新大阪から新幹線で、それぞれ12時台に出発すれば七類(島根県松江市)を出航する高速船の最終便を捕まえることができ、18時半ごろに海士町へ着く。最速とはいえ6〜7時間かかり、いずれも移動で半日がつぶれる。

飛行機に詳しい人なら隠岐空港(隠岐の島町)の利用を思いつきそうだが、どのみち海士町まで隠岐汽船を利用することになるし、両者のダイヤは乗り換えが不便だ。

なお最速ルートは、季節によって変わる。高速船の最終便は春と秋には出航が1時間早くなり、冬は全便運休だ。フェリーも、冬は1日あたり3便が2便に減る。

ネットは全てを解決せず

とはいえ旅好きの私にとっては、交通の便の悪さなど承知の上。引き換えに得られる手つかずの自然が、不便を補って余りあるという考えだった。

いざとなれば、ネットがある。海士町は離島ながら、早い時期に光回線が開通していた。遠くて行けない仕事は断ればいい。まさかの欠航で約束をふいにする機会はそうそうなかろうとも考えていた。

しかし甘かった。海士町への移住を告白したクライアントのうちいくつかは、従来通りの動きを強く求めた。すなわち「ここまで来てほしい」ということだ。全てを断ると生活できなくなる。やむなく応じた。

クライアントへの愛着から、面会してのミーティングを自ら望んだケースもあった。

だから移り住んでから1年ほどは月の半分が出張で、「前田さん、今、島外?」という電話が島内にいるにもかかわらず、よくかかってきたものだ。どうやら島にいないのがデフォルトというイメージだったらしい。

また欠航は、欠席やリスケの理由にならない。開き直ってみても約束は約束である。欠航を見越して本土へ前乗りしたり、欠航で本土へ足止めになったり。これは、思わぬ負担になった。

田舎の因習は恐ろしい?

海士町の人口は2353人(2018年5月調べ)。コミュニティの小ささゆえに移住者を受け入れているにせよ閉鎖的で住みにくいのではないかという心配はあった。

対して私が生まれ育った姫路は、人口53万人余り。国内20位クラスの工業都市で、商業も盛んな小都会である。ただし私の生家は郊外で、因習まみれの古い集落にあった。だから、たとえ絶海の離島でも海士町のいわゆる「田舎ぶり」への驚きは全くなかった。

「田舎」にありがちな因習は、姫路や海士町に限らずどこも似たり寄ったりである。島外と盛んに交流する様子から海士町を姫路よりも都会的に感じたくらいだ。

なお生活で、三つの基本は「あいさつ」「笑顔」「気配り」だろうか。隣人が見えない都会では、欠いている(忘れている)人も多い。私も実家へ戻る前の暮らしではそうだった。当時は「これぞ都会。楽でよい」と考えていたが、今となっては逆に、隣人と関わることなく埋もれて生きていける雰囲気をなにやら空恐ろしく感じてしまう。

今のところ、三つのうち笑顔は少々苦手だが、あいさつと気配りはまずまずと自負している。そもそも三つが欠けていてはどんな仕事もうまくいかないのであって、とりわけ起業を志す人なら、どこのどんな場面でもわけなく実践できることではないだろうか。

「正業」と「生業」

ところで、私はどうやら親不孝らしい。私が「正業に就かなかった」と両親は嘆く。彼らのいう理想の正業は、「立派な組織に入り、それなりの地位を追い求めつつできるだけの給与を得て生業とすること」に他ならないからだ。要は、名のある会社か安定した役所へ「お勤め」してもらいたかったということである。

こうした「正業感」は、彼らだけのものではない。世間でも一般的な観念であろう。すなわち私の「生業」は、組織に属していないがゆえに社会から「正業」と認めてもらえない向きにあるのが実情だ。いかにも古い。

果たして海士町での「正業」とはなんだろうか。私の生業は正業として受け入れてもらえるだろうか。これも心配の一つだった。

海士町での「お勤め」先は、行政か三セク、教育、福祉、建設業などに限られる。労働人口の流出は激しいものの、島へ残り「お勤め」しない道を選んだ人は、半農半漁プラスアルファだったり、個人商店を営んだり内航・外航の船乗りだったり、その他諸々である。

彼らから感じるのは、友人や地域、行政とよく助け合いながらできることにはなんでも取り組み、仕事を創出して暮らしてきたプライドだ。

だから、私が組織に属さず一人で稼いでいる事実に興味や好奇の視線は感じても、遠巻きに不安視するようなムードはない。見下されることもない。かえってほめられるくらいだ。

心配は取り越し苦労に終わった。「三つの基本」の実践も相まって、どうにか島の社会に溶け込めつつある。

「私」について

職業はルポライター?

かえって私の方が、私の生業を分かりやすく周囲へ伝えられていないのではという感は大きい。これは移り住む前から難しく感じてきたことなのだが、この場を借りて説明しておきたい。

私が物書きを生業にしていることは、先に述べた。物書きは物書きでも創作の分野ではないから、小説などはものしたことがない。注文に応じて、情報誌やガイドブック、企業や行政のPR誌などに寄稿して稼ぐ暮らしである

税務署からは大分類=B「専門的・技術的職業従事者」、中分類=21「著述家、記者、編集者」、小分類番号=212「記者、編集者」をもらい、具体的には「ルポライター」という職種で届けを出した。

実態は「何でも屋」

ルポライターとは、ロケハンやインタビューなどの取材で得た情報をもとに執筆した文章を提供する職業だ。以前は広告文案を提供するコピーライターもやっていたし、その前は雑誌や広告の図案やレイアウトを練るDTPデザインにも手を染めていた。そういえば、同じく雑誌や広告の誤字脱字や文法の誤りを正す校正者でもある。

最近は、ルポライティングからコピーライティング、DTPデザイン、校正までを引っくるめて引き受ける上に企画にも携わるから「編集者」と名乗ったり呼ばれたりすることもある。紙媒体出身だが、最近はこれこの通り、WEB媒体での仕事も増えてきた。体のいい何でも屋といったところだろうか。

とにかく一般的な仕事とはいえないし、守備範囲も広いから職業を問われると困る。せめてもの分かりやすさを念頭に「ライターです」と答えることが多いが、なにやらはぐらかしているようで心中は複雑。つい視線を泳がせてしまうところはお許し願いたい。明確な成果で問いに応じられるようにしていくところもまた、今後の課題といえそうだ。

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